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2019年9月27日金曜日

「図案対象」を遺した久保克彦の生涯



「自画像」  久保克彦
 「無言館のさかみち」の台本の原作となった「無言館への旅」や「遺された画集」では、久保克彦は「図案対象」という絵を遺した印象的な人物として紹介されていましたが、その生涯について詳しくは不明ととされていました。今回出版された「輓馬の歌」によって、その生涯と戦死の状況がはじめて明らかになりました。

「輓馬の歌」木村 亨著 国書刊行会

久保克彦と原田新

 
 久保克彦は、山口県東部の瀬戸内海に浮かぶ佐合島という小島で生まれた。生家はこの島で古くから醤油醸造業を営んでおり、七百坪の屋敷に三十数槽の樽が並んでいたという。父周一は、「白船」という俳号を名乗る俳人でもあった。 

 克彦が2才のときに一家は徳山へ転住する。二人の姉を徳山高等女学校に入学させるためだった。
 克彦は小学校で生涯の親友となる原田新と同級になり、二人とも徳山中学に進学する。

 
 久保克彦は、6人兄弟の末っ子。4人の姉と1人の兄がいた。

 原田 新は、8人兄弟の長男。3人の妹と4人の弟がいた。

 
 原田新は病気のため徳山中学を二年間休学し、休学中に母の勧めで絵を習うようになり、久保克彦も共に絵を習う。

 昭和11(1926)年、克彦は、中学卒業後東京美術学校への進学を希望するが、父の反対にあい受験を見送る。絵への思いを断ち切れず、同年9月上京し、東京美術学校への受験準備をする。

 昭和12年、工芸科図案部に不合格。一方、原田新は油絵科に合格した。翌13年、克彦は工芸科図案部に合格した。

 東京美術学校は全国の大学のなかでも、ひときわ自由の気風の強いところだった。

 昭和16年に父が他界する。

 昭和17(1942)年3月に、卒業が半年繰り上げて9月になり、同時に入隊すると知らされる。

 克彦は、五、六冊あったという手製の詩集を出版することを夢見ていた。軍隊に入る前に、姉の美喜子に「もし自分が戦地から生還しなかったなら、この詩集を出版してほしい」と言い残して東京を後にした。詩集は数点の絵とともに徳山に送られたが、昭和20年の空襲で、すべて焼失した。


 久保克彦と原田家

 
 久保克彦は、原田家の長女千枝子に思いを寄せていた。千枝子は後に「久保さんは、詩のような、散文のような手紙をよくくれました」と語っている。そのかたわら、原田家の次女の悦子は、克彦に淡い憧れを抱いていた。

 一方、千枝子には縁談が進められていた。克彦が卒業制作「図案対象」の制作にとりかかる頃、千枝子と山県(やまがた)海軍中尉との婚約の知らせが届く。

 
「妹・千枝子の像」  原田 新

 昭和178月末、卒業制作「図案対象」完成。923から3日間、東京府美術館で展示。首席作品として東京美術学校に買い上げられる。

 101日、克彦は松江の陸軍西部第六十四部隊に入隊し、昭和185月、久留米の予備士官学校に入った。原田新は、克彦より一年早い昭和1612月に繰り上げ卒業、翌年2月に入隊していた。山口の連隊の人事係が原田家を訪ね、「お宅のご子息はご長男ですが、ご希望はありますか」と問うた。

 新の父も母も、何も言うことができなかった。

 たまりかねた次女の悦子が、沈黙を破った。

 「どこか……華々しいところへお願いします」

 悦子は、この言葉をその後長く悔やむことになる。

 原田新と久保克彦の死



 昭和1887日、原田新戦死。3か月後に戦死広報が届く。千枝子の夫の山県(やまがた)海軍中尉も、昭和182月に戦死していた。

 昭和194月、久留米の予備士官学校を卒業した克彦は、中支への転属命令を受ける。出発前に原田家を訪ねた克彦は、新の部屋でただ一人、レコードを聴いた。515日漢口着。任地まで二十数日かけて徒歩で行き、6月中旬、歩兵第二百三十二聯隊に見習士官として着任。

 母清子は、克彦が中国に出征した直後に急逝した。

 昭和191944)年718日、久保克彦戦死。

 克彦を小隊長とする約20名が斥候出撃し、敵影が見当たらず、帰隊し始めた直後狙撃され、克彦が倒れていた。遺体は現地で荼毘に付された。



「克彦には、必ず生きて帰るという、強烈な意思が希薄だった。

 克彦を捉えていたのは、戦争の行方についての打ち消しようのない疑念であり、自分の運命に対する諦めだった。」

  「輓馬の歌」  久保克彦


 それは風でも無い雨でもない。

 えじぷと煙草のやうに匂ふ

 悒鬱な月蝕の大気の下を、

 永遠の時の彼方ヘあてもなく行く

 数知れぬ悲しい輓馬の隊列。



 荒蕪な海岸要塞区の

 こんくりいとの送兵道路に

 離脱出来ない蒼ざめた影を輓き

 怠惰な戦争の続いてゐる

 黄土の大陸の方へと進んで行く。



 それは

 (詩は、ここまでしか書かれていない)


「図案対象」  久保克彦

2017年12月4日月曜日

本「戦火に生きた演劇人たち」

「戦火に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇
    堀川 惠子 (講談社)


 演出家八田元夫の名は聞いたことがある程度で、この本でその経歴を初めて知った。
 八田元夫(1903~1976)は戦前、戦中、戦後を新劇の世界に生きた演出家である。彼の残した膨大な資料が早稲田大学の演劇資料館に保管されていた。この資料をもとに、大正デモクラシーに花開いた新劇が、やがて昭和に入って政治の圧倒的な圧力(検閲、上演中止、解散命令、一斉逮捕)にさらされ、これに抵抗し、苦悩しながら舞台に立ち続けた演劇人の姿を、その苦悩に寄り添いながら描かれたすぐれたノンフィクション。



 移動劇団「桜隊」は広島で原子爆弾で全滅した。宿舎があった堀川町は、爆心から至近距離の約700メートル。『広島原爆戦災誌』によると町内の建物は100%が爆風で倒壊し、住民の86%が即死したとある。
 八田元夫は戦争末期にその「桜隊」の演出家を努めた。東京から広島に同行したが運命のちょっとしたいたずらで原爆の惨禍をまぬがれ、命を繋いだ。八田は仲間たちの最後を見届け、彼らの骨を拾って歩いた。丸山定夫との別れは以下のようだった。

八月十六日。
 八田はまた捜索に出かけようとした。とたんに丸山が声をあげた。
「昨日、一日留守だったんだ。今日はいておくれよ」
 必死にすがってくる様子にグッときたが、仲間も捜さなければならない。丸山の介護は槇村に頼んで寺を出た。それが丸山最後の姿になろうなどとは考えもしなかった。

 丸山定夫は戦時下の移動劇団苦楽座(後に「桜隊」)で、国策芝居の上演の間にも三好十郎の「獅子」の芝居をしのび込ませ、ぎりぎりのヒューマニズムと人間のリアリズムを描きだそうとした。



 
「桜隊」で被爆死した団員八名の名前は以下のとおり。
 丸山定夫、森下彰子、園井惠子、高山象三、仲みどり、羽原京子、島木つや子、笠絅子(けいこ)、小室喜代




 映画「無法松の一生」(昭和18年)は主演坂東妻三郎、未亡人役園井惠子(後に「桜隊」に参加し広島で被爆し死亡する)で大ヒットした。この映画で未亡人の息子を演じた川村禾門(かもん)と結婚相手の田村彰子の運命も痛切である。

 著者は最後にこう記している。
「彼らが生きた時代に向きあう時、私たちは改めて反芻することになるだろう。あの時と同じ空気が今、この国に漂ってはいやしないか。頭上を覆い始めたどす黒く思い雲から、再びどしゃぶりの雨が降り出しやしないか。そしてその時、果たして私たちは、足を踏ん張って立ち続けていくことができるだろうかと。」
 著者の問いかけの言葉は重い。