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「自画像」 久保克彦 |
「無言館のさかみち」の台本の原作となった「無言館への旅」や「遺された画集」では、久保克彦は「図案対象」という絵を遺した印象的な人物として紹介されていましたが、その生涯について詳しくは不明ととされていました。今回出版された「輓馬の歌」によって、その生涯と戦死の状況がはじめて明らかになりました。
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「輓馬の歌」木村 亨著 国書刊行会 |
久保克彦と原田新
久保克彦は、山口県東部の瀬戸内海に浮かぶ佐合島という小島で生まれた。生家はこの島で古くから醤油醸造業を営んでおり、七百坪の屋敷に三十数槽の樽が並んでいたという。父周一は、「白船」という俳号を名乗る俳人でもあった。
克彦が2才のときに一家は徳山へ転住する。二人の姉を徳山高等女学校に入学させるためだった。
克彦は小学校で生涯の親友となる原田新と同級になり、二人とも徳山中学に進学する。
久保克彦は、6人兄弟の末っ子。4人の姉と1人の兄がいた。
原田 新は、8人兄弟の長男。3人の妹と4人の弟がいた。
原田新は病気のため徳山中学を二年間休学し、休学中に母の勧めで絵を習うようになり、久保克彦も共に絵を習う。
昭和11(1926)年、克彦は、中学卒業後東京美術学校への進学を希望するが、父の反対にあい受験を見送る。絵への思いを断ち切れず、同年9月上京し、東京美術学校への受験準備をする。
昭和12年、工芸科図案部に不合格。一方、原田新は油絵科に合格した。翌13年、克彦は工芸科図案部に合格した。
東京美術学校は全国の大学のなかでも、ひときわ自由の気風の強いところだった。
昭和16年に父が他界する。
昭和17(1942)年3月に、卒業が半年繰り上げて9月になり、同時に入隊すると知らされる。
克彦は、五、六冊あったという手製の詩集を出版することを夢見ていた。軍隊に入る前に、姉の美喜子に「もし自分が戦地から生還しなかったなら、この詩集を出版してほしい」と言い残して東京を後にした。詩集は数点の絵とともに徳山に送られたが、昭和20年の空襲で、すべて焼失した。
久保克彦と原田家
久保克彦は、原田家の長女千枝子に思いを寄せていた。千枝子は後に「久保さんは、詩のような、散文のような手紙をよくくれました」と語っている。そのかたわら、原田家の次女の悦子は、克彦に淡い憧れを抱いていた。
一方、千枝子には縁談が進められていた。克彦が卒業制作「図案対象」の制作にとりかかる頃、千枝子と山県(やまがた)海軍中尉との婚約の知らせが届く。
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「妹・千枝子の像」 原田 新 |
昭和17年8月末、卒業制作「図案対象」完成。9月23から3日間、東京府美術館で展示。首席作品として東京美術学校に買い上げられる。
10月1日、克彦は松江の陸軍西部第六十四部隊に入隊し、昭和18年5月、久留米の予備士官学校に入った。原田新は、克彦より一年早い昭和16年12月に繰り上げ卒業、翌年2月に入隊していた。山口の連隊の人事係が原田家を訪ね、「お宅のご子息はご長男ですが、ご希望はありますか」と問うた。
新の父も母も、何も言うことができなかった。
たまりかねた次女の悦子が、沈黙を破った。
「どこか……華々しいところへお願いします」
悦子は、この言葉をその後長く悔やむことになる。
原田新と久保克彦の死
昭和18年8月7日、原田新戦死。3か月後に戦死広報が届く。千枝子の夫の山県(やまがた)海軍中尉も、昭和18年2月に戦死していた。
昭和19年4月、久留米の予備士官学校を卒業した克彦は、中支への転属命令を受ける。出発前に原田家を訪ねた克彦は、新の部屋でただ一人、レコードを聴いた。5月15日漢口着。任地まで二十数日かけて徒歩で行き、6月中旬、歩兵第二百三十二聯隊に見習士官として着任。
母清子は、克彦が中国に出征した直後に急逝した。
昭和19(1944)年7月18日、久保克彦戦死。
克彦を小隊長とする約20名が斥候出撃し、敵影が見当たらず、帰隊し始めた直後狙撃され、克彦が倒れていた。遺体は現地で荼毘に付された。
「克彦には、必ず生きて帰るという、強烈な意思が希薄だった。
克彦を捉えていたのは、戦争の行方についての打ち消しようのない疑念であり、自分の運命に対する諦めだった。」
「輓馬の歌」 久保克彦
それは風でも無い雨でもない。
えじぷと煙草のやうに匂ふ
悒鬱な月蝕の大気の下を、
永遠の時の彼方ヘあてもなく行く
数知れぬ悲しい輓馬の隊列。
荒蕪な海岸要塞区の
こんくりいとの送兵道路に
離脱出来ない蒼ざめた影を輓き
怠惰な戦争の続いてゐる
黄土の大陸の方へと進んで行く。
それは
(詩は、ここまでしか書かれていない)
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「図案対象」 久保克彦 |