近江商人の奉公人はどのような生活だったのか
大商人は出身地近くに、奉公人を斡旋する専属の口入屋(くちいれや)を持っていた。「宿元」ともいいこれが身許保証人でもあった。
外村 繁邸 |
丁稚奉公
十才前後で郷里の本宅で試験的に使われ、留守居の女房が子守り、使い走り、掃除をさせながら読み書き算盤を教えた。眼鏡にかなった者を適当な店に派遣して訓練と教育を続けた。一人前の商人になれずに家に戻された者も多かったという。(店で働き始めて二年後には、半数の者が何らかの理由で辞めたという記録も残っている。)
炊事場 |
10才から12才で丁稚として働きはじめ(〇吉、〇松、〇蔵と名付けられた)、17才(元服)前後で手代となり(〇兵衛、〇衛門と名付けられた)、その後は番頭、主席番頭(支配人とも言い店の経営責任者)と昇進した。
奉公人の給金と「お預け金」
労働を売るというより実務教育を受けるという意味が重いので、若い間は著しく低い。店員には現金を渡さない。「通い帳」を持って掛買いし、決済は店が一括して行う。
本人の「給金帳」に前貸しとして記録され、決算時に本人の一年分の給金と相殺される。丁稚のときは給金より前貸分が大きい。手代となり給金が高くなると前貸分より大きくなり、差額を店に預ける結果となる。これを「お預け金」という。
在所登り
郷里への帰休制度。奉公して五年目「発登り」、二年たって「二度登り」、その後三年たって「登り」、あとは「隔年登り」、「毎年登り」と繰り返したというのが一般的。
期間は、最初の二回は五十日程度、後見役として奉公人を伴うときは三カ月以上という。帰休とともに伊勢参宮、京、大阪、江戸、西国見物が組み込まれた。
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