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2019年11月12日火曜日

第3回公演 共生のまち大津・演劇プロジェクト 劇団まちプロ一座 有座(たもつざ)

 劇団まちプロ一座

「バリアフリー探偵レン」

舞台写真(11月9日<土>)








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 有座(たもつざ)

 「送り火」

舞台稽古写真(11月8日<金>) 




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2019年11月11日月曜日

公演御礼!

 「第3回共生のまち大津・演劇プロジェクト」を開催


 2019年11月9日(土)、10日(日)の2日間にわたって開催しました「第3回共生のまち大津・演劇プロジェクト」の公演には、会場いっぱいの皆さんに観に来ていただき有難うございました。おかげをもちまして、無事今年度の公演を終えることができました。
 来年度も第4回公演を開催する予定です。
 よろしくお願いします。

 グループ橋「無言館のさかみち」舞台稽古より(11月8日<金>)


第1場 旅へ 1994年 春

第1場 旅へ 1994年 春
 「今になって……戦死した同級生の家を訪ねるなんて、やっぱりどうかしてるよね。」


第2場 伊沢 洋 「家族」

第2場 伊沢 洋 「家族」
「洋の遺品の中に手帳がありまして……」

第2場 伊沢 洋 「家族」

「今でも洋の供養に、ときどき仏壇の前で歌ってやっております。」
(チャカホイ節を唄う)









第3場 最後の遺品

第3場 最後の遺品
「ええから。早よ帰って。」


第3場 最後の遺品
「離し言うてるのに!」


第3場 最後の遺品







「タツヤ、兄さんの絵ずっと守っていけるんか。」


第4場 千葉 四郎

第4場 千葉 四郎
「ようごそ、遠いどこをおいで下さいました。」



第4場 千葉 四郎
「四郎さん、本当に消えてしまった。」



第4場 千葉 四郎
「もし、生きて還れることがあったら……」


第4場 千葉 四郎
「クボシマ君、君は妙なクセがあるんだね。」

第4場→第5場 ナレーション

ナレーション
「クボシマは不安を抱えながら、遺作収集の旅を続けた。」」


第5場 出来過ぎた話

第五場 出来過ぎた話
「実はあなたが持っていった伯父の絵のことなんですよ。」



第五場 出来過ぎた話
「クボシマ君、どう美術館を建てるという話は、進んでますか。」



第五場 出来過ぎた話
「もう、後戻りできません」

第6場 原田 新「妹・千枝子の像」
    久保 克彦「図案対象」  

第6場 原田 新「妹・千枝子の像」 久保 克彦「図案対象」
「兄は、中学生のときに肺浸潤で2年ほど休学しまして、」


第6場 原田 新「妹・千枝子の像」 久保 克彦「図案対象」
「久保さんが、そんな絵を……」


第6場 原田 新「妹・千枝子の像」 久保 克彦「図案対象」
「本当に、本当にすまないことをしたと思っているんです。」


第7場 日高 安典 「裸婦」

第7場 日高 安典 「裸婦」
「安典さんはこのあたりの風景も描いていたんでしょうか」




第7場 日高 安典 「裸婦」

「安典さんは、6人兄弟の2番目ですね。」



第7場 日高 安典 「裸婦」

「『あと五分、あと十分この絵を描かせてほしい』、それが家族にのこした最後の言葉になりましたなぁ」


「乾かぬ絵具」

「乾かぬ絵具」
六十年も経つというのに
あなたの絵具は
ちっとも乾いていない




「乾かぬ絵具」
乾かぬ絵具よ
いまも少しも色褪せぬ
あなたの一滴の命よ



………………… 幕 ………………





「無言館のさかみち」 舞台見取り図

上演時には若干の修正あり



2019年11月7日木曜日

公演用パンフレットが出来ました

 いよいよ公演が近づき、「共生のまち大津・演劇プロジェクト第3回公演」のパンフレットが出来上がりました。

 自画自賛ではありますが、 参加団体の特色が出た良いパンフレットになりました。

第1面     

 

















第2面  
第3面          




















第4面      
























2019年9月30日月曜日

弘前の千葉四郎さんをさがして

 「吉井酒造』のいまは…

 「無言館のさかみち」の原作の『「無言館」への旅』には、野見山氏と窪島氏が戦没画学生の千葉四郎さんの生家がある弘前に行き、吉井酒造を訪ねる場面が出てきます。

 今年の6月に秋田・青森を旅行したときに吉井酒造を訪ねました。

 千葉四郎の姪御さんの『吉井千代子さんが経営する酒造会社は、弘前駅前のロータリーをすぐよこに入ったところにあった。』

 この文章を頼りに、弘前駅前を歩いて探すと「吉井酒造株式会社」という標識が見つかりました。

 
 『吉井さんの会社は有名な地元の酒「吉野桜」の醸造元である。』

 この文章から、今も盛んに醸造されており、出来れば「吉野桜」を買って帰りたいと思っていましたが、 会社の事務所らしい建物には人の出入りがなく、酒造りはもう行っていないようでした。


事務所の建物
 

吉井酒造の全景


吉井酒造の広い敷地

 広い敷地に大きな倉庫が残っており、醸造元として繁盛していたことがしのばれます。 それだけに、よけい月日の移り変わりを感じました。
 
 後で調べてみると、この敷地はすでに弘前市が取得しており、レンガつくりの建物や倉庫をいかした活用方法を検討中とのことでした。

 「吉井酒造」の建物とともに、千葉四郎さんは消えてしまうのでしょうか。

 「山のホテル」へ

 野見山氏と窪島氏は、千葉四郎さんの遺された作品を見たあと、嶽温泉の「山のホテル」に案内されます。
 二人はこのホテルに宿泊し、面白いやり取りがあります。

 弘前駅前から、嶽温泉行のバスに乗り、私も「山のホテル」に宿泊しました。

弘南バスで嶽温泉へ
弘前駅から1時間以上かかりました。

嶽温泉バス停
 バス停のすぐ後ろに「山のホテル」が見えます。岩木山のふもとの嶽温泉は、落ち着いた温泉です。

「山のホテル」
  思っていた以上にモダンな玄関です。中の設備もよく整えられていました。


「山のホテル」の宿泊室
窪島氏が、野見山氏の大きなイビキに悩まされたのも、このような部屋だったのでしょうか。



 青森ヒバの湯船といい湯でゆっくりしました。

 フロントの方に「吉井酒造」のことを聞いてみ見ましたが、あまりわからないとのことでした。
  青森の行く先々の売店でも「吉野桜」を探しましたが、見つかりませんでした。


「四郎さん、本当に消えてしまった。」







2019年9月27日金曜日

「図案対象」を遺した久保克彦の生涯



「自画像」  久保克彦
 「無言館のさかみち」の台本の原作となった「無言館への旅」や「遺された画集」では、久保克彦は「図案対象」という絵を遺した印象的な人物として紹介されていましたが、その生涯について詳しくは不明ととされていました。今回出版された「輓馬の歌」によって、その生涯と戦死の状況がはじめて明らかになりました。

「輓馬の歌」木村 亨著 国書刊行会

久保克彦と原田新

 
 久保克彦は、山口県東部の瀬戸内海に浮かぶ佐合島という小島で生まれた。生家はこの島で古くから醤油醸造業を営んでおり、七百坪の屋敷に三十数槽の樽が並んでいたという。父周一は、「白船」という俳号を名乗る俳人でもあった。 

 克彦が2才のときに一家は徳山へ転住する。二人の姉を徳山高等女学校に入学させるためだった。
 克彦は小学校で生涯の親友となる原田新と同級になり、二人とも徳山中学に進学する。

 
 久保克彦は、6人兄弟の末っ子。4人の姉と1人の兄がいた。

 原田 新は、8人兄弟の長男。3人の妹と4人の弟がいた。

 
 原田新は病気のため徳山中学を二年間休学し、休学中に母の勧めで絵を習うようになり、久保克彦も共に絵を習う。

 昭和11(1926)年、克彦は、中学卒業後東京美術学校への進学を希望するが、父の反対にあい受験を見送る。絵への思いを断ち切れず、同年9月上京し、東京美術学校への受験準備をする。

 昭和12年、工芸科図案部に不合格。一方、原田新は油絵科に合格した。翌13年、克彦は工芸科図案部に合格した。

 東京美術学校は全国の大学のなかでも、ひときわ自由の気風の強いところだった。

 昭和16年に父が他界する。

 昭和17(1942)年3月に、卒業が半年繰り上げて9月になり、同時に入隊すると知らされる。

 克彦は、五、六冊あったという手製の詩集を出版することを夢見ていた。軍隊に入る前に、姉の美喜子に「もし自分が戦地から生還しなかったなら、この詩集を出版してほしい」と言い残して東京を後にした。詩集は数点の絵とともに徳山に送られたが、昭和20年の空襲で、すべて焼失した。


 久保克彦と原田家

 
 久保克彦は、原田家の長女千枝子に思いを寄せていた。千枝子は後に「久保さんは、詩のような、散文のような手紙をよくくれました」と語っている。そのかたわら、原田家の次女の悦子は、克彦に淡い憧れを抱いていた。

 一方、千枝子には縁談が進められていた。克彦が卒業制作「図案対象」の制作にとりかかる頃、千枝子と山県(やまがた)海軍中尉との婚約の知らせが届く。

 
「妹・千枝子の像」  原田 新

 昭和178月末、卒業制作「図案対象」完成。923から3日間、東京府美術館で展示。首席作品として東京美術学校に買い上げられる。

 101日、克彦は松江の陸軍西部第六十四部隊に入隊し、昭和185月、久留米の予備士官学校に入った。原田新は、克彦より一年早い昭和1612月に繰り上げ卒業、翌年2月に入隊していた。山口の連隊の人事係が原田家を訪ね、「お宅のご子息はご長男ですが、ご希望はありますか」と問うた。

 新の父も母も、何も言うことができなかった。

 たまりかねた次女の悦子が、沈黙を破った。

 「どこか……華々しいところへお願いします」

 悦子は、この言葉をその後長く悔やむことになる。

 原田新と久保克彦の死



 昭和1887日、原田新戦死。3か月後に戦死広報が届く。千枝子の夫の山県(やまがた)海軍中尉も、昭和182月に戦死していた。

 昭和194月、久留米の予備士官学校を卒業した克彦は、中支への転属命令を受ける。出発前に原田家を訪ねた克彦は、新の部屋でただ一人、レコードを聴いた。515日漢口着。任地まで二十数日かけて徒歩で行き、6月中旬、歩兵第二百三十二聯隊に見習士官として着任。

 母清子は、克彦が中国に出征した直後に急逝した。

 昭和191944)年718日、久保克彦戦死。

 克彦を小隊長とする約20名が斥候出撃し、敵影が見当たらず、帰隊し始めた直後狙撃され、克彦が倒れていた。遺体は現地で荼毘に付された。



「克彦には、必ず生きて帰るという、強烈な意思が希薄だった。

 克彦を捉えていたのは、戦争の行方についての打ち消しようのない疑念であり、自分の運命に対する諦めだった。」

  「輓馬の歌」  久保克彦


 それは風でも無い雨でもない。

 えじぷと煙草のやうに匂ふ

 悒鬱な月蝕の大気の下を、

 永遠の時の彼方ヘあてもなく行く

 数知れぬ悲しい輓馬の隊列。



 荒蕪な海岸要塞区の

 こんくりいとの送兵道路に

 離脱出来ない蒼ざめた影を輓き

 怠惰な戦争の続いてゐる

 黄土の大陸の方へと進んで行く。



 それは

 (詩は、ここまでしか書かれていない)


「図案対象」  久保克彦